昭和12年生まれの黒野富太郎さんは、特に月島をとりまく「水辺」への思いが深いといいます。しかし、戦後間もない食料が不足している時代、それは単なる遊びではなく、生活のために魚や貝を捕るという側面もあったようです。
この記憶の前後のお話です。(抜粋、一部要約)
黒野さん
(この記憶は)疎開から帰ってきてすぐだから昭和21、22年頃です。それよりもうちょっと前、今90歳くらいの人たちは泳ぎ、海水浴場です。場所としてそれがあったかは知らないけど、私の記憶では遠浅になったときに潮干狩り。
戦後すぐは、子どもはたくさんいましたよ。亡くなる人も多かったですよ。同級生でも、何人も病気で亡くなっているし。
子供は多かったですね、大人は少ないけど。若い人が(戦争にいって)いないんだから。おばさんとおじいさんばかり。あまり活発な遊びは戦後2、3年過ぎるまではやらなかったですよね。子どもだけだから、遊ぶものもないし、遊び方も知らない。ですから、かけっことか、あっち行ったりこっち行ったり、一番遊びやすいのは水の中という話になってきたんですよね。
☆お話いただいた方のプロフィール
黒野富太郎さん
昭和12年(1937年)月島生まれ。月島第一小学校、月島第一中学校卒業。疎開(愛知県)以外は、ずっと月島に暮らす。
中央区で浜町体育館の運動指導員、現在文化財サポーターとして活躍中。