住吉講は、主に佃住吉神社の神事をサポートする役割があり、その最大の行事が三年に一度の例大祭になります。近年では初詣の際の交通整理も担っています。一部(上町)、二部(下町)、三部(東町)に分かれており、厳しい規則を大切に守りながら今日まで運営が続いてきました。三部の重鎮である中澤さんが、その活動…
父の代まで漁師だったという中澤家。中澤さんがまだ幼い頃、父の木造船に乗って、当時は漁場だったお台場まで漁に行った記憶、そして、寒さの厳しい冬に海苔を漉く手伝いをしていた思い出を語ってくださいました。当時の船入堀(佃堀)は冬になると一帯が海苔干し場となったようです。昭和三十年代の写真や地図も交え…
銭湯(「日の出湯」、その前は「佃湯」という名だったという説もあり)から佃小橋周辺の光景。漁師や、天秤棒を担いで魚を売り歩いていた人たち(ぼてふり)が仕事が終わり、風呂から上がると、佃小橋で夕涼みを始める…。その光景を、中澤さんがユーモラスに語ってくださいました。かつての佃ならでは…
「島の中を歩いているとみんな顔なじみ。隣に入っていくのでも、何の抵抗もなしに入っていった…」。ほかの話し手の方々からもきかれるかつての佃の当たり前。そんな共同体のような関係性が、佃島のご近所付き合いの原点だったそうです。後半は、佃にかつていたおっかないお年寄りの話。その一人が中澤…
周囲を水に囲まれていた佃の子どもたちは、小さい頃から泳ぎを仕込まれたそうです。「昭和二十年代、まだ隅田川がきれいだった頃に泳いだことがある」という話は、月島の話し手の方からもききますが、佃っ子はスケールが違います。対岸まで泳いだり、佃の渡しから飛び込んで岸まで戻ってきたりと、警察に怒られても水…
中澤さんが若い頃にまちの長老から聴いたというお話です。住吉講の一部(上町・うわて)、二部(下町・しもちょう)、三部(東町・むかいちょう)の対抗意識が今よりもずっと強かった時代、他の部の祭りの装飾を、夜こっそりと、佃堀を泳いで渡って壊しに来た、ということもあったとか。でも「その頃のほうが面白かっ…
中澤さんが若い頃、八角神輿の宮入りの時にきいたお話です。当時のうんと古い長老は、八角神輿の中に入っている神様のことを「旦那様」と呼んでいたそうです。「それだけ神を身近に感じていたんですかね」(中澤さん)。各部にお稲荷さんがあり、今も信仰心が厚い方が多いという佃ですが、日々の信仰の原点は住吉神社…
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