現在も月島1丁目で栁田産業(配管用継手販売、作業工具製造販売)を営む栁田莊二さん。住宅兼工場のある建物は昭和9年の建築。 もともと鍛冶屋をやっていた祖父が千葉から月島(西仲通り)に移ってきたのが大正7年頃。その後、関東大震災で当時住んでいた長屋は壊滅的被害を受…
月島八丁目(現在の勝どき)で生まれ育った佐藤さんの、幼い頃の戦争にまつわる記憶です。疎開先のこと、父が掘った防空壕に隠れたこと、戦後しばらくたってから日比谷公園のプールに遊びに行ったときに見た銀座・松屋の焼けた外壁のこと、そして、深川の小学生が空襲で大勢亡くなった…
大山隆三さん(昭和26年生まれ)の生活の記憶。 沖縄から上京してきた大山さんのお父さん(大正7年生まれ)は、志願して陸軍に入り、やがて二・二六事件に巻き込まれます。その後、月島警察署勤務の警察官となり、当時、月島12丁目にできた臨港駐在所に配属されました。 …
大山隆三さん(昭和26年生まれ)が生まれ育った臨港駐在所(当時の月島12丁目、現在の勝どき5丁目/6丁目あたり)。その近くに倉庫があり、そこを改造して多くの引揚者が暮らしていたようです。そんな人々を駐在所配属の警察官だった大山さんのお父さんはいつも思いやっていたと…
昭和10年創立の月島第三小学校(月三小)の第1回卒業生で、PTA会長だった原田さんが話してくれた戦前の朝潮運河の記憶です。 水がきれいで白魚が捕れた、朝学校へ行くときに橋を渡らずに運河を泳いで渡った…など、今では考えられない時代のお話です。 …
昭和8年生まれの保田さんの一回り年上の兄(長兄)の記憶です。その兄が昭和20年に特攻隊員として佃を離れる時の感動的なエピソードに始まり、終戦後に帰還してすぐGHQの通訳として働き始めた時の周囲の反応、そして、保田さんが「人というのは食べ物に弱いものだ」と強く実感し…
昭和15生まれの高梨さんが小学校低学年だった昭和21~22年頃の記憶。築地の市場に行って、そこで大八車から落下する食べ物めがけてダッシュする光景が目に浮かびます。「貧しかったけど面白かった」という言葉がとても印象的です。 (さらに……
昭和14年生まれの宮本邦夫さんは、昭和19年に両親の故郷である長崎に疎開します。しかし、移動の途中、東南海地震が発生、橋が崩落したため途中で引き返しました。20日後再び電車に乗り、長崎に到着。その後、幼い少年が目にした悲惨な光景と8月9日の原爆の記憶を語ってくださ…
昭和14年生まれの宮本邦夫さんが疎開先の長崎から戻ってきた昭和27年頃の記憶です。その頃竣工した月島第一中学校に通っていた宮本さん。そばにあった月島第三小学校は、戦時中は陸軍が使用していたこともあり、戦後、米軍によって接収されていました。宮本さんは、フェンスの向こ…
戦後、進駐軍に捕鯨再開が認められ、その第一船が築地に入ってきたときの町の様子です。海が近く、水に囲まれたこのエリアならではの光景です。 (さらに…)…