鈴木さんが月島第二小学校の六年生のとき、昭和15年に勝鬨橋が開通しました。学校の前へ出て日の丸を振り、橋があがったところに傷痍軍人が乗った真っ白い船が隅田川を通っていったそうです。今から80年以上前の出来事を鮮明に覚えておられ、それを記録できる貴重なインタビューで…
現在も月島1丁目で栁田産業(配管用継手販売、作業工具製造販売)を営む栁田莊二さん。住宅兼工場のある建物は昭和9年の建築。 もともと鍛冶屋をやっていた祖父が千葉から月島(西仲通り)に移ってきたのが大正7年頃。その後、関東大震災で当時住んでいた長屋は壊滅的被害を受…
大正7年生まれの大山さんのお父さんは、最愛の奥様に先立たれ寂しい思いをされたことかと思いますが、大山さん一家をはじめ、ご家族に寄り添われながら98歳まで生きられたそうです。 この動画では、志願して陸軍に入隊し二・二六事件に巻き込まれた18歳頃のエピソード、 …
昭和10年創立の月島第三小学校(月三小)の第1回卒業生で、PTA会長だった原田さんが話してくれた戦前の朝潮運河の記憶です。 水がきれいで白魚が捕れた、朝学校へ行くときに橋を渡らずに運河を泳いで渡った…など、今では考えられない時代のお話です。 …
祖父、父と三代続く理容師だった馬場さん。職業柄、いろんな世代のお客さんがやってきて、興味深い話をたくさん聴いたそうです。明治25年に築島された月島に、最初に入ってきた人の記憶や新興地として工業、造船業などが栄えた月島の様子がうかがえます。 (さら…
大正6年に月島周辺を襲った高潮は大変な被害があったそうです。昭和15年生まれの馬場さんが祖父から聴いたお話です。そして、伊勢湾台風後の造られた隅田川のカミソリ堤防について話してくださいました。先代、先々代の体験や記憶を聴く、できれば記録しておく、ということの大切さ…
昭和12年生まれの黒野富太郎さんの記憶。現在、晴海総合高校がある場所には、かつて月島第一中学校がありました。それができる以前、戦中戦後の食糧難の時代に、黒野さんたちはそこで芋を育てていたそうです。 (さらに…)…
昭和7年生まれの寺本さんは自宅で産婆さんに取り上げられました。当時は産婆さんが月島のあちこちにいたそうです。 (さらに…)…
寺本さんが営む陶器店「かね重」は西仲通り商店街にありますが、戦前は別の場所にありました。当時、その周辺には、商店や飲食店が並び、ちょっとした繁華街だったそうです。今では見かけなくなった商売、当時の月島ならではの商店もあり、時代を感じられる貴重な記憶です。 (…
かね重の寺本さんが、月島西地区のまちの形成について語っていただいた部分を抜粋しました(一部要約) ☆お話しいただいた方のプロフィール 寺本政美さん 昭和7年(1932年)月島生まれ。7人兄弟の4人目。陶器店「かね重」店主(二代目)。 長…
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