昭和8年生まれの保田さんの一回り年上の兄(長兄)の記憶です。その兄が昭和20年に特攻隊員として佃を離れる時の感動的なエピソードに始まり、終戦後に帰還してすぐGHQの通訳として働き始めた時の周囲の反応、そして、保田さんが「人というのは食べ物に弱いものだ」と強く実感し…
昭和8年生まれの保田さんは、当初、NHKに就職しましたが、すぐにストレスのため体調を崩し、ドクターストップがかかり、やむなく退社。 その後、快復した保田さんがやりたいと思ったのは商売。しかし、父親代わりの叔父は、性格的に無理だ、となかなか認めてくれません。 …
昭和8年生まれの保田さんが月島テレビ商会を立ち上げた昭和30年頃は、テレビがまだ一般家庭に普及していないため、街頭テレビの前に大勢の人が押し寄せました。 最初は佃の長屋を借りて商売を始めた保田さん。「テレビ屋なんだからテレビを置かないと…」という…
まだテレビが一般家庭に普及する前の話。お金に余裕のある家庭ではいち早くテレビを購入し、保田さんがそれを地方都市に設置に行ったときのエピソードです。 映画やドラマでもよく取り上げられるシーンではありますが、それをまさに体験・体感した保田さんの語り口から、当時の盛…
昭和8年生まれの保田さんが月島テレビ商会を起業して、ちょっと経ってから、この仕事が天職だと思った出来事がありました。 当時、集団就職で東京に働きに出てきた若い女性の楽しみは、寮にあるテレビ。それが壊れると皆ホームシックにかかり「帰りたい」というから、修理してほ…
保田さんは30年にわたり町会長として地域に貢献されました。その間、活動に対し、総理大臣賞をはじめ、さまざまな賞や感謝状を受けました。保田さんは、町会活動の一環で、東京に大地震が起こった際に各家庭にいくらかの現金が渡るよう積み立てを呼びかけました。その資金源は新聞・…
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