昭和26年に疎開先の愛知県から月島に戻ってきた稲垣家。稲垣さんは当時高校二年生でした。静かな田舎と比べ、清澄通り沿い暮らしは「都電がうるさく、勉強できない」というギャップがあり、押し入れの中で勉強をしていたそうです。一方で家業の手伝いも忙しくなりました。昭和27年当時、月島には酒屋が34軒もあり、「ほかのお店と仲良くしたいから」ということで月島では営業せず、もっぱら晴海や豊洲に御用聞きに回ったそうです。晴海と豊洲は草っぱらが広がり人家は少ない状態でしたが、稲垣さんは数少ない民家、畑仕事に来る人などに声をかけて回り、その後、開発工事に携わる人々のための宿泊所に目をつけて、大きな注文をとることができました。当時の晴海、豊洲の様子もよくわかる貴重なエピソードです。