戦前、西仲通りには夜店がならび、大勢の人でにぎわったそうです。昭和7年生まれの寺本さんがまだ幼かった頃の記憶を語ります。
☆お話しいただいた方のプロフィール
寺本政美さん
昭和7年(1932年)月島生まれ。7人兄弟の4人目。陶器店「かね重」店主(二代目)。
長年にわたり、西仲通り商店街の発展に尽力。
☆月島・まちの成り立ち
月島が誕生してから昭和の初めまでのまちの成り立ちを、寺本さんが語ってくださいました。
寺本さん(談)
月島というのは東京の中でも新興地でしたから。月島ができたのがたしか明治25年の東京の埋め立て一号地で、東京のほうで住宅地区にしようということで月島という島ができたんですね。
で、明治30年頃から東京都が作った住宅地ですから、碁盤の目のような形で町が構成されて、そこへどんどん住居をつくって、人口が増えていった町なんです。
ところが、その当時は、佃島は昔からあった島ですけど、月島の浅瀬を埋め立ててつくった場所ですから、まったく人が住んでいない場所に住宅地を作ったということで、交通の便がちょっと悪かったんですね。
それで一番最初にできたのが、深川のほうからくる相生橋というのが一本だけ架かっている。あとは、月島に住んでいる人たちが銀座だとか築地のほうに行くには、3か所の渡船、「佃の渡し」「月島の渡し」「勝どきの渡し」で大川を渡って向こう側に行って、銀座のほうから電車に乗っていくとか、というのが主流だったんです。
だから、住んでいる人は、東京の中でも昔からあるまちじゃないから、逆に住みいいんですね。古い人がいないから。
で、明治の終わりになると人がばーっと押し寄せてきた。それで、働く場所がいっぱいあるわけですよ。石川島造船所、月島機械、それから石井鐵工所なんていうのがあって、その大きな工場の下請会社の小さな町工場がいっぱいあったわけです。そこらへんに働く人がこの路地の住宅地を利用して住んで、そこから通っていた。それから、渡船で渡って築地の魚河岸に勤める人とか。
それで、ここが人口がどんどん増えて、大正時代になると、軍事産業が盛んでしょ。だから、佃の石川島造船所だとかほかの工場も非常に仕事が多かったわけ。そこに働く人がいっぱいいるということは、街が非常に活気があったわけですね。
その活気のあった中で、一番肝心なのは渡船ですね。渡船が三か所ある中で、月島というのは清澄通りが中心だったんだけど、この西仲通りが一番その渡船に近い大通りだったんで、ここに商店が集まりだしたんです。明治の終わりの頃。
で、大正時代に現在ある商店街の形がとれて繁華街になったわけですけど、人は集まるんだけど、商店だけではだめだということで、映画館、それから寄席ができて、街の中心が月島の西地区に集まったわけですよね。西地区に人口が増えてきて、この通りに、夜になると夜店が出たり、渡船を渡って向こうから買い物に来る、と。その方達が映画を見たり、寄席で浪花節、落語、講談だとかを聴いて帰るとかいう、なんというか今で思うと、本当の下町情緒があった。なんか江戸時代の名残のある街の風情だったわけですよね。