かね重の寺本さんが、ご自身の戦時中の体験、戦後の商店街の取り組みについて語っていただいた部分を抜粋しました(一部要約)
☆お話しいただいた方のプロフィール
寺本政美さん
昭和7年(1932年)月島生まれ。7人兄弟の4人目。陶器店「かね重」店主(二代目)。
長年にわたり、西仲通り商店街の発展に尽力。
寺本さん(談)
・昭和19年 集団疎開(小学校6年生のとき)
軍国主義の教育をばっちり受けてましたから、将来は「お国のために絶対死ぬんだ」という覚悟でしたが、戦争が激しくなって、空襲が始まったんですよ。昭和19年。それで、木造建築に中に住んでいる子ども達が一番先にやられると将来的に日本はダメになっちゃうから、子どもを強制疎開させようと。親戚のある人は田舎へ、親戚のない人は集団疎開と学校ぐるみで疎開をさせたわけですよ。で、月島の場合は埼玉県の秩父と特別に連携をして、各学校ごとに秩父のお寺さんや天理教さん、それから修行の道場だとかにみんな疎開したわけです。
僕らはそのときちょうど六年生。三年生から上が疎開なの。二年生、一年生はまだ小さいから親元を離れられない。それで三年生から疎開をしましたから、班が決まってて20人くらいの班を六年生が二人くらいずついて面倒見るんです。
それで昭和19年の夏休みが終わった9月かな、みんな上野から汽車で秩父まで行って、それで親元を離れて、向こうの小学校へ通って、それを六年生が面倒を見て、先生も一緒なんだけど、ほとんど女の先生ばっかりなんですよ。男の先生はみんな出征してますから。
・疎開先の生活
夜寝るときは、三年生くらいだとまだ親元離れて寝泊まりしたことないから泣くんですよ。そういう子たちの面倒を見る。今の六年生にはできないと思うけど、そういうのをよくやりましたよ。
それで食べ物の事情が悪いですから。いかにも埼玉県の秩父だから食べ物事情は東京よりいいと思うでしょ。全然ダメなんです。向こうも食べ物が実際にない場所でしたから。お芋だとか。細々とした栄養バランスを考えたら、粗食ですね。
・東京大空襲
私の場合は6カ月行ってたんです。なぜ6か月かというと、中学に上がらないといけないじゃないですか、六年生は。受験が3月だから、3月に東京に六年生だけ帰すということで、月島第一小学校の六年生だけが集まって汽車に乗って上野駅に着いたらびっくりしたんです。東京が丸焼けなんです。上野の駅からずっと東京湾の方まで見渡せるくらい。「これは戦争に勝てないな」と子ども心に思って、それで上野から有楽町へ出て、有楽町から歩いて帰ってきたわけ。
ところが、帰ってきた翌々日が3月10日の東京大空襲にぶちあたったんです。秩父の町へ疎開している頃は敵の飛行機なんか見たことなかったんですけど、なにしろ東京湾のほうから飛行機がバーッと来るのが見えて、それで爆弾落とすのが見えるでしょ。それで、父親なんかは消防団でいないと。だから、六年生の僕らが屋根の上に上がって飛んでくる火の粉を消したりした。
その3月10日の大空襲は怖くて、この周りは深川のほうから本所のほう、ずっと丸焼けになりましたから。で、月島だけが奇跡的に爆弾が落ちない。飛行機はこの上をダーッと通るんだけど、割と被害がなかったから。戦争で焼けなかったんですよ。
・父親の実家のある島根県へ再び疎開
ところが、そういうふうに戦争が激しくなったでしょ。それで、父親は集団疎開で帰ってきた私を東京の中学に入れるつもりだったけど、すぐ家族全員を父親の実家のある島根県へ急きょ疎開させた。東京の大空襲を見て「このままじゃもう全員死んじゃう」。みんながそうだったわけですよ。
私の場合は、島根県へ疎開した。島根のほうはは空襲がないですから、いいところへ疎開をして、向こうの中学へあがって、もう東京へは戻らないつもりでいたわけです。
父親と姉は東京にいましたから、昔住んでいたところが戦争中に強制疎開で取り壊されて、両側20mぐらい道路の幅を広げたんです、火災の時に火が移らないように。それでここ(現在のかね重)を買って住んだわけです。
・終戦後、西仲通り共栄会の発足
終戦になって、元のところに家が建つようになったんだけど、商店としてはこの場所のほうがいい。で、うちの親父はここで商売を始めたんだけど、私の場合は長男が10歳違いで戦争に行ってましたから、戦争から帰ってきて病気で亡くなって、私が跡取りになったといういきさつがありましてね。
終戦になって一年くらいして私が戻ってきた。終戦直後の東京ですよね。闇市の盛んなころの。お店もまともな仕入れでは商売できなくて、裏でいろんな闇市みたいな格好で仕入れて商売したりしていた時代もちょっとあったわけです。
その後、問屋ができるようになって、基本的な商売ができるという時代がきた。その時に商店街が四つあったわけですよ。で、この商店街を一本化をしようということで、登内さんという方、この商店街の初めての理事長なんですけど、その方が説得して、西仲通共栄会という会を作ろう、と。今までのこだわりのない、その代わりブロックごとの親睦の会だけは残しておこうということで現在まで続いているのがこの形なんです。
終戦後も露店が出たんです。ところが、だんだんマッカーサーの統制だとかがあって、道路で物を売ることはダメだという時代が来た。勝どき橋を降りた一角に露天商を全部そこに、小さい商店街ですけど入れて、商売する人はして、しない人はその権利を売るという形で露天商がなくなったわけです。
そのころはアーケードだとか歩車道区分はなくて、ここの商店街もまだ土で、ようやっとアスファルトになったくらい。だから道路では子ども達がうんと遊んでたわけですよ。ところが、自動車産業が発達して車が通るようになって「このままの商店街じゃだめだ」と。(昭和30年頃)私が23歳で商店街の役員になり、親父が早く亡くなって28のときに跡を継ぎました。夜店がなくなり、「このままじゃだめだ、町を改革しよう」「自動車が通るようになったんで歩車道区分をしてやろう」って言ったら、みんな反対なんですよ。昔は「自分の家の前は自分の権利」みたいな考えでしたからね。だんだん、区道は区の許可を得て営業するならする、自分のうちは自分の地権で権利を主張してやるということが段々みんなわかるようになってきた。それを浸透させるのは相当時間がかかりましたけどね。
・アーケード
東京都内で一番目か二番目くらいに古いアーケードを作ったんですよ。登内さんという理事長の方が非常にまとめが上手だったということもあって、この街づくりを一生懸命やられまして、それで商店街にアーケードをつくった。現在のような形じゃなくて、ただ雨をしのぐくらいのアーケードでした。
ところが、今度は僕らの時代になって、立て直しの時期がきたんですね。ちょうど僕が副理事長兼総務部長でやっているとき、若手の、僕と同じ40歳くらいの連中が一生懸命なんですよ。佃、晴海、勝どき、豊海だとか、「これは我々の商圏だ。このお客さんを逃してなるものか」というので、若手の役員が出てきてやった。それが大成功で、みんなやる気がでて、「いい街にするためには各々が資金を出さなきゃいけない」というので、この商店街では積立がはじまった。それで10年くらい積立したのをもとにして、東京都に申請を出して、振興組合法にのっとって補助金をもらって、それから中央区も、人形町が補助金もらってやってましたから、「人形町と互角に補助金出してくれ」というようなことでアーケードを新しくしたんですよ。そのためには日本全国のアーケードを見て回らないといけないということで、4、5人ですかね、自分のお金を出し合って、いろんな商店街を見て、繁盛している商店街の役員さんと懇談をしたりなんかして、現在の三角屋根の下町風情のアーケードを作ったわけですよ。作ったとたん、日本全国の商店街から今度は逆視察に来られるくらいの商店街になったんですね。
・月島築島百年祭
そのころは昔からの地域密着型の商店街。それが、何年か経つうちに時代が変わってきて、スーパーやコンビニができたり、橋や地下鉄ができたり交通の便がよくなったら、もう地元で買い物をしなくても外で買い物ができるようになった。また一番困ったのは通販が流行ったでしょ、テレビで。あれで我々、大きな打撃を受けたんです。それで、「これはもう対抗しなきゃいけない」ということで、いろんなイベントを盛んに打った。
それから、月島築島百年祭というのをやったんです。400万くらいの予算を政府の資金の振興資金団体かなんかに申請したんです。そしたら担当者がそれを見て、「なに?月島が100年なの?」「ええ、100年になるんです」「100年だったらもうちょっと企画を変えてこい!」って言われて、「えっ?」って言ったら、「最高額の一千万出してやるから変えてこい」って言うから、それで慌てて帰ってきて、また幹部の役員を招集して、それから事業計画なんかを立て直して、百年祭というのをやった。それで百年祭の記念史も発行したんですね。図書館行くとあると思いますけど。
月島を大事にしようという時代だったんです。