月島1丁目、清澄通り沿いの一角で栁田産業を営む栁田さんの事務所の床には、防空壕が残っています。当時は、清澄通り沿いの植栽のある場所に防空壕を掘っていたことが多かったようですが、「いずれにせよ空襲を受ければ蒸し焼きになっただろう」と語ります。父親から聴かされた話として、深川にあった自社工場が東京大空襲で焼けた際、そこにたどりつくまでの間、黒焦げの男女の区別もできない死体が無数に転がっていたそうです。
工場で焼け残った機械は日立製作所に持って行きましたが、「艦砲射撃ですっ飛んでっちゃった」。残りを自宅(現在の場所)に移し、修理しながら工場を再スタートさせました。