中澤孝子さんの中学生の頃の光景。50年来のお付き合いがある荷出さんと一緒に、歩きながらの会話です。
ご両親を早く亡くし、お兄さん夫婦に育てられた中澤さんは中学生の頃に勝どきに暮らし始めました。
今、大きなマンションが立ち並んでいる場所には2階建ての小さな家屋が並び、朝潮運河沿いの友人の家は釣り船屋を営んでいた、友だちの中には水上生活者が多くいて、今の月島第二児童公園には水上寮があった、豊洲の日本水産にクジラの解体を見に行った、知り合いの元中華そば屋さんが交番に出前をしていた、など、昭和20年代後半から30年代頃と思われる光景をお二人で語ってくださいました。
一緒にお話しをしてくださった荷出さんは、中澤さんの隣人で、娘さんたちと歳が近く、互いに行き来する家族ぐるみのお付き合いだったそうです。荷出さんは「うちの母は地方から出てきて、近くに親戚もなく、困った時はご近所を頼るしかなかった」と言います。中澤さんは、荷出さんとご自身の娘さんについて「どっちの家の子どもか、わからないくらいだった」と振り返っていました。