田中家の本家筋は網元として隆盛を誇っていましたが、寿子さんの祖父たち男兄弟は「放蕩しすぎるから」という理由で分家させられ、その後、祖父はコマセ問屋を始めました。今のように陸の交通網がない時代に、どのようにコマセ(アミジャコ)を各地に運んだのでしょう。また、コマセ問屋は大正末期頃には佃に八軒ありましたが、寿子さんが知っている頃には3軒にまで減っていったこともあってか、佃の歴史の中でもあまり知られていないとのことです。寿子さんの父が造った、佃で初めての機械船「福神丸」の写真も含め、非常に貴重なインタビューです。