昭和26年生まれの大山さんが中学生の頃に熱中した野球チームの話です。
当時は、卒業した学校の在校生・OBや、地域、会社・商店などが作った少年野球チーム(選手は18歳以下、指導は大人)が月島にも十数チームあったようです。大山さんが所属していたのは「月島フライヤーズ」「月四」(のちに月一クラブ)。
練習後は、仲間と一緒に近くの銭湯(神保湯)で汗を流してから、よく「100円もんじゃ」を食べに行ったそうです。そのお店は子ども向けではなく、今のもんじゃ屋さんと変わらないスタイルで、今の月島三丁目の清澄通り沿い「一軒め酒場」のあたりにあったそうです。
そのほか練習後には、大人たちが観戦する中、縁台将棋に興じることも。
今でもつきあいのある先輩に「当時は、しごかれた」と言いながら、とても楽しそうに話す大山さんです。
(少年野球チームは学校の部活動ではありませんが、「学校・部活」というテーマに入れました)
[参考]
大山さんの話の中に「当時は警察が少年野球大会を主催していた」というくだりがあります。
下記写真は、警察官であったお父さんが持っていた「月島警察署五十年の歩み」の中の一ページです。
当時の月島の野球チームは強かったようで、昭和27年には「オール月島が優勝し東京代表になった」と書かれています。
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大山隆三さん
昭和26年月島生まれ。
月島第二小学校、月島第二中学校卒業。
祖父の代から数えて月島で三代目。職業は元寿司職人。
父は月島警察署の警察官。人情味のある人柄は多くの人に慕われた。