太平洋戦争末期、鈴木さん(昭和4年生まれ)の母校、月島第二小学校が野戦病院になっていたという記憶です。校舎が黒幕で覆われ、中は見えないようになっていたそうです。授業ができないため、疎開をしない・できない子どもたちは、寺小屋に通いました。寺小屋は勝どきに2つあった銭湯や、清澄通り沿…
現在も月島1丁目で栁田産業(配管用継手販売、作業工具製造販売)を営む栁田莊二さん。住宅兼工場のある建物は昭和9年の建築。 もともと鍛冶屋をやっていた祖父が千葉から月島(西仲通り)に移ってきたのが大正7年頃。その後、関東大震災で当時住んでいた長屋は壊滅的被害を受…
月島1丁目栁田産業の奥には「現役の井戸」があります。栁田さん(昭和17年生まれ)は現在もその水を植木の水やり、打ち水、機械の洗浄などに使っています。戦時中は防火、消化のために月島でも井戸づくりが行われ、長屋と長屋の間には必ずと言っていいほど井戸があったそうです。 …
豊洲にあったテニスコートのところに、かつて高射砲隊があり、B29が石川島造船所を狙って飛来してきた際、その高射砲によって撃ち落されたことがあったようです。昭和10年生まれの稲垣さんの記憶です。 [youtube-adds id="https://y…
大正7年生まれの大山さんのお父さんは、最愛の奥様に先立たれ寂しい思いをされたことかと思いますが、大山さん一家をはじめ、ご家族に寄り添われながら98歳まで生きられたそうです。 この動画では、志願して陸軍に入隊し二・二六事件に巻き込まれた18歳頃のエピソード、 …
昭和8年生まれの保田さんの一回り年上の兄(長兄)の記憶です。その兄が昭和20年に特攻隊員として佃を離れる時の感動的なエピソードに始まり、終戦後に帰還してすぐGHQの通訳として働き始めた時の周囲の反応、そして、保田さんが「人というのは食べ物に弱いものだ」と強く実感し…
馬場さんのインタビュー中に、一級下の高梨さんがたまたま通りかかり、インタビューに加わってくださいました。動画は、お二人のコメントをつないであります。 昭和15年生まれの馬場さんは昭和19年、縁故疎開で富山に引越しました。しかも、ご自宅も月島警察署に近かったため…
宮本邦夫さんがまだ1歳か2歳の頃、一軒に4つの家族が一緒に住んでいたときのお話です。当時、宮本さんのご家族は5人で、6畳の部屋を使っていたということです。 (さらに…)…
昭和14年生まれの宮本邦夫さんは、昭和19年に両親の故郷である長崎に疎開します。しかし、移動の途中、東南海地震が発生、橋が崩落したため途中で引き返しました。20日後再び電車に乗り、長崎に到着。その後、幼い少年が目にした悲惨な光景と8月9日の原爆の記憶を語ってくださ…
宮本邦夫さんが長崎に疎開する前の昭和19年、そして、小学校を卒業して月島に戻り、月島第一中学校に通っていた昭和27年頃、そして、昭和30年代の時代の変化、生活の変化を話してくれました。 戦中は魚を釣っておかずにし、配給の列に並ぶ日々。昭和27年に戻ってきた時の…