単調なリズムの太鼓と哀愁を帯びた踊り歌に合わせ、足を引きずるような動きを右に左に繰り返しながら踊る、佃島の盆踊り。昔から渡邉家の身内が中心となって、歌い継いできた歴史があるそうです。そのルーツは、石山本願寺と織田信長の合戦に勝利した鈴木飛騨守が、負傷した足を引きず…
昭和8年生まれの保田さんの一回り年上の兄(長兄)の記憶です。その兄が昭和20年に特攻隊員として佃を離れる時の感動的なエピソードに始まり、終戦後に帰還してすぐGHQの通訳として働き始めた時の周囲の反応、そして、保田さんが「人というのは食べ物に弱いものだ」と強く実感し…
昭和8年生まれの保田さんは、当初、NHKに就職しましたが、すぐにストレスのため体調を崩し、ドクターストップがかかり、やむなく退社。 その後、快復した保田さんがやりたいと思ったのは商売。しかし、父親代わりの叔父は、性格的に無理だ、となかなか認めてくれません。 …
昭和8年生まれの保田さんが月島テレビ商会を立ち上げた昭和30年頃は、テレビがまだ一般家庭に普及していないため、街頭テレビの前に大勢の人が押し寄せました。 最初は佃の長屋を借りて商売を始めた保田さん。「テレビ屋なんだからテレビを置かないと…」という…
佃・月島エリアの桜の風景です(撮影:宮本) ※写真をクリックすると拡大されます ○月島川水門周辺 ○勝鬨橋へ ○対岸から月島川水門 ○中央大橋から佃…
昭和12年生まれの黒野富太郎さんの記憶。現在、晴海総合高校がある場所には、かつて月島第一中学校がありました。それができる以前、戦中戦後の食糧難の時代に、黒野さんたちはそこで芋を育てていたそうです。 (さらに…)…
村田さんが当時通っていた月島第一中学校は築地にあり、放課後、晴海(当時は四号地)へ野球の練習に行くためには勝鬨橋を渡らなくてはなりませんでした。急ぐ少年たちの目の前で、合図とともに橋が開き始めた!…橋の見張り役?のおじさんとのやりとりです。 (…
昭和15年生まれの黒野さんが横須賀から月島にお嫁に来た頃の思い出です。「佃の渡し」の最後の日、渡船に乗って月島にやってきた際は、「ああ、すごいところにきちゃうんだ」と思ったそうです。当時はまだ長屋だった黒野家に実母がやってきた時の話など、興味深いお話です。 [youtube…
昭和12年生まれの黒野富太郎さんは、特に月島をとりまく「水辺」への思いが深いといいます。しかし、戦後間もない食料が不足している時代、それは単なる遊びではなく、生活のために魚や貝を捕るという側面もあったようです。 (さらに…)…
(撮影:宮本) 最後の写真は住吉神社の第一鳥居の前のしだれ桜です。 …