「島の中を歩いているとみんな顔なじみ。隣に入っていくのでも、何の抵抗もなしに入っていった…」。ほかの話し手の方々からもきかれるかつての佃の当たり前。そんな共同体のような関係性が、佃島のご近所付き合いの原点だったそうです。後半は、佃にかつていたおっかないお年寄りの話。その一人が中澤…
周囲を水に囲まれていた佃の子どもたちは、小さい頃から泳ぎを仕込まれたそうです。「昭和二十年代、まだ隅田川がきれいだった頃に泳いだことがある」という話は、月島の話し手の方からもききますが、佃っ子はスケールが違います。対岸まで泳いだり、佃の渡しから飛び込んで岸まで戻ってきたりと、警察に怒られても水…
中澤さんが若い頃にまちの長老から聴いたというお話です。住吉講の一部(上町・うわて)、二部(下町・しもちょう)、三部(東町・むかいちょう)の対抗意識が今よりもずっと強かった時代、他の部の祭りの装飾を、夜こっそりと、佃堀を泳いで渡って壊しに来た、ということもあったとか。でも「その頃のほうが面白かっ…
中澤さんが若い頃、八角神輿の宮入りの時にきいたお話です。当時のうんと古い長老は、八角神輿の中に入っている神様のことを「旦那様」と呼んでいたそうです。「それだけ神を身近に感じていたんですかね」(中澤さん)。各部にお稲荷さんがあり、今も信仰心が厚い方が多いという佃ですが、日々の信仰の原点は住吉神社…
百年以上続いた佃の山本商店。2020年5月に閉店しました。この動画はその約一年前に収録した、三代目主人・征子さんのインタビューです。昔から駄菓子も置いてあったようですが、元祖コンビニ(萬屋)として地域の人々に重宝がられていたそうです。やがてスーパーができはじめ日用品が売れなくなり、徐々に駄菓子…
「昔の子どもたちは渡船場通りで野球をやったり、外で伸び伸びと遊んでいた。今の子どもたちはちょっと窮屈じゃないかな。あれやっちゃダメ、これもやっちゃダメ、これは禁止だ…」と山本さんは言います。駄菓子屋に来ればそこは子どもたちの世界。お小遣いのやりくりを学んだり、子ども同士でこっそり…
山本商店・三代目店主の征子さんが佃に嫁いできたのが昭和42年。あっけらかんとした下町の雰囲気が漂い、ご近所とも何かしらでつながっており、行き来も頻繁にあったそうです。後半は地域の人々から呼ばれている「ちょうべい」の由来。お向かいの櫻木龍吉さんの兄・秀吉さんが描いた昭和初期の佃の地図にも「長兵衛…
櫻木さんの子どもの頃の遊びの話です。子どもたちは上町(うわて)、下町、東町(むかいちょう)ごとに遊んでいたようです。佃の渡しから伸びる渡船場通りでは野球をやったり、時には東雲都橋の方まで歩いてハゼ釣りに出かけたこともあったようです。下町には漁師が多く、お盆前に佃で釣りをしていると「殺生するんじ…
昭和39年に佃大橋ができる前、そこには佃川が流れていました。そこにあった櫻木家の階段の話です。江戸時代からあるその階段は、房州などから船で運ばれてきた魚を荷揚げするためのものだったようです。櫻木家の日本橋魚河岸時代の鑑札は「荷主」と「仲買」、屋号は、日本橋魚河岸時…
佃の渡船場通りにある櫻木家は、戦後、駄菓子屋を営んでいた時期がありました。その当時(昭和22年頃)の貴重な写真には、縁台に座る櫻木さんや生き生きとした表情で遊ぶ少年たちの姿が映っています。櫻木家の向かいにはすでに駄菓子屋・山本商店がありました。櫻木家は主に生菓子や焼き芋を扱っていたそうです。 …