栁田さんは長年に渡り町会、民生・児童委員(代表会長も)、月島補導連絡会(会長も務める)など、地域のボランティア活動を続けてこられました。新しいマンションができると管理事務所で「うちには区にお世話になる人はいませんから結構です」と断られ、一方で、あれほど隣近所と親密…
埋め立て地である月島は、かつて月島第一小学校が最も高い建物だと言われていたそうです。その後、工場や銭湯がマンションに変わると同時に、建設技術が進化。八階建てができたら「すごいな」と言ってる間に、今は五十階。「もう全然考えられないですよね…」という言葉…
月島1丁目の伊勢喜酒店のご主人、昭和10年生まれの稲垣さんは、一旦、埼玉の秩父に集団疎開しましたが、病気で昭和19年に一旦東京に戻りました。その時に目にしたのは、向島方面の空襲、焼け野原になった東京駅周辺でした。そのまま父親の故郷である愛知県西尾に疎開しましたが、…
豊洲にあったテニスコートのところに、かつて高射砲隊があり、B29が石川島造船所を狙って飛来してきた際、その高射砲によって撃ち落されたことがあったようです。昭和10年生まれの稲垣さんの記憶です。 [youtube-adds id="https://y…
月島1丁目の伊勢喜酒店のご主人、稲垣さんの父が月島に店を構えたのが昭和8年。軍隊を除隊後、伯父が勤めていた「伊勢もと」に入り、それから独立されたようです。高輪、品川なども候補に挙がっていましたが、「高輪は偉い人ばっかりで高いものしか売れない。品川は当時、色街で、売…
昭和26年に疎開先の愛知県から月島に戻ってきた稲垣家。稲垣さんは当時高校二年生でした。静かな田舎と比べ、清澄通り沿い暮らしは「都電がうるさく、勉強できない」というギャップがあり、押し入れの中で勉強をしていたそうです。一方で家業の手伝いも忙しくなりました。昭和27年…
大洋漁業との取引があった伊勢喜酒店(月島1丁目)。ご主人の稲垣さんが、当時、遠洋漁業の船に大量の酒類などを納品する苦労を語ってくださいました。船の廊下はとても狭く、重い酒瓶を納入するのは骨が折れたそうで、仕事を手伝う奥様に初めて「(着物ではなく)洋服着ろ、ズボン履…
月島1丁目の伊勢喜酒店のご主人、稲垣さんは消防団を40年、少年補導を約50年、防犯協会を約20年など、長期にわたり社会奉仕活動、地域貢献を続けてこられました。そのきっかけになったのは、当時お隣に住んでいた町会長から言われた「月島で商売するのなら地元に奉仕してくれ」…
月島八丁目(現在の勝どき)で生まれ育った佐藤さんの、幼い頃の戦争にまつわる記憶です。疎開先のこと、父が掘った防空壕に隠れたこと、戦後しばらくたってから日比谷公園のプールに遊びに行ったときに見た銀座・松屋の焼けた外壁のこと、そして、深川の小学生が空襲で大勢亡くなった…
月島八丁目(現在の勝どき)に生まれ育った佐藤さんの記憶です。サムネイルの地図は、昭和20年代の勝どきを思い出して佐藤さんが描いたものです。動画は八丁目の交差点、現在の勝どき駅前交差点からスタートし、晴海通りを勝鬨橋方面に歩きます。「勝どきサンスクェア」の再開発前には晴海通り沿いに商店が軒を連ね…