村田さんが当時通っていた月島第一中学校は築地にあり、放課後、晴海(当時は四号地)へ野球の練習に行くためには勝鬨橋を渡らなくてはなりませんでした。急ぐ少年たちの目の前で、合図とともに橋が開き始めた!…橋の見張り役?のおじさんとのやりとりです。 (…
昭和7年生まれの寺本さんが物心ついた頃、昭和10年代の長屋と路地の生活景。月島ならではの住宅事情、路地のあちこちににぎやかな声が響き渡っている様子が思い浮かぶお話です。 (さらに…)…
村田さんが小学校に入学した昭和16年は、軍事教育真っ盛りで、先生から殴られることも多かったそうです。あるとき先生に殴られて帰ったときのお父さんとの会話、そして、戦後、軍服を着た先生とのやりとりです。 (さらに…)…
冷蔵庫のない時代、暑い夏の時期は酒が傷みやすく、販売に大変苦労したそうです。利き酒の技術が酒屋に求められた時代のお話です。 (さらに…)…
戦前、西仲通りには夜店がならび、大勢の人でにぎわったそうです。昭和7年生まれの寺本さんがまだ幼かった頃の記憶を語ります。 (さらに…)…
昭和9年生まれの村田さんは、中学1年生頃からお店の手伝いをしていたそうです。仕事帰りに合成酒をあおるおじさんたちとのやりとりを軽妙な語り口で再現してくれました。 (さらに…)…
昭和7年生まれの寺本さんが小学校に入学してまもなく、軍国主義教育が熱を帯び、幼心にもいずれ戦地に向かうという覚悟をしていたそうです。そんな状況でも、やはり子どもは遊びになると夢中になって駆け回っていたという記憶です。 (さらに…)…
夏の一大イベントとなった月島の草市は、もともと明治時代末期といわれています。戦後の草市のにぎわいは東京で1,2を争うほどだという話も聞きます。寺本さんに、月島草市の成り立ちと、昭和20年代の盛況ぶりについてお話いただきました。 (さらに…)…
2018年7月に撮影した送り火の様子です。 7月16日、ご先祖様にお帰りいただく送り火の前にも、やはり素焼きのほうろくの中で残りのおがらを焚きます。その後、提灯を持って、わたし公園に向かいます。 仏様にご先祖様の無事のお帰りと自分たちの家内安全などをお祈りして、提灯をお渡しし…
2018年7月に撮影した迎え火の様子です。 月島のお盆はわたし公園で行われます。この公園に、お盆のために仏様が安置され、7月13日、月島3丁目付近の人たちはここで提灯に火をいただき、ご先祖様を自宅へとお連れするのです。 その前に、自宅玄関の入り口で、素焼きのほうろくの中でおが…