当時は月島にもたくさんあったという駄菓子屋の記憶。所狭しと並べられていたお菓子やおもちゃ。特に「当たり付」のものには並々ならぬ集中力を発揮するのが子どもです。名人芸?を披露する塚田さん(右の方)と店のおじさんの表情が目に浮かびます。 (さらに……
粘土屋さん・粘土型屋さんについては、ネット上にもたくさんの証言があがっていることから、各地に出没?していたのでしょう。複雑な子ども心を、塚田さんの巧みな話術でお楽しみください。 (さらに…)…
月島人のソウルフード、もんじゃ焼き。昔は路地のあちこちに、子ども向けのもんじゃ焼きやたくさんあったそうです。ほかの下町とは異なる、月島ならではの事情も語られていて興味深いお話です。 (さらに…)…
子どもが多かった時代、お小遣いで買える食べ物を扱った屋台も多かったそうです。目一杯遊んで、お腹がすいたら、小銭を握りしめて屋台を探す。おでん、蜜パン、そして、屋台ではありませんが月島名物の「レバーフライ」に関する思い出です。 (さらに…)…
昭和52年(1977年)に当時晴海にあった国際展示場で開催された「サンスター・スーパーカー・コレクション’77」を塚田さんが見に行った時の話です。全国的なスーパーカーブームだった当時、憧れのスーパーカーを実際に見た興奮が伝わってきます。 (さらに…)…
村田さんが営む「駿河屋酒店」は以前、西仲通りと渡船通りの交差点の角にありました。戦前は、渡船を利用して月島に働きに来る人たちが多く、現在よりも人の往来が激しかったそうです。 (さらに…)…
生きた魚・カエルを売る店のおじさん、パン工場の工場長、そして、渡船の船頭さんとのやりとり…好奇心旺盛な少年時代の記憶です。 (さらに…)…
昭和7年生まれの寺本さんは自宅で産婆さんに取り上げられました。当時は産婆さんが月島のあちこちにいたそうです。 (さらに…)…
寺本さんが営む陶器店「かね重」は西仲通り商店街にありますが、戦前は別の場所にありました。当時、その周辺には、商店や飲食店が並び、ちょっとした繁華街だったそうです。今では見かけなくなった商売、当時の月島ならではの商店もあり、時代を感じられる貴重な記憶です。 (…
村田さんが当時通っていた月島第一中学校は築地にあり、放課後、晴海(当時は四号地)へ野球の練習に行くためには勝鬨橋を渡らなくてはなりませんでした。急ぐ少年たちの目の前で、合図とともに橋が開き始めた!…橋の見張り役?のおじさんとのやりとりです。 (…