月島と月三小がある晴海との間には朝潮運河があります。 その朝潮運河にはかつて筏会社があり、水面に筏がたくさん浮かんでいました。 荷出さんより一回り前の月島っ子は、その筏で遊んでいたそうですが、死亡事故などもあり、荷出さんの頃には厳しく禁止されていたようです…
昭和10年創立の月島第三小学校(月三小)の第1回卒業生で、PTA会長だった原田さんが話してくれた戦前の朝潮運河の記憶です。 水がきれいで白魚が捕れた、朝学校へ行くときに橋を渡らずに運河を泳いで渡った…など、今では考えられない時代のお話です。 …
大きな鉄工所や造船所、その関連工場などが多く点在していた月島。当然、学校にもそこで働く親をもつ子どもたちがたくさんいましたが、皆、親の立場の違いなどは気にすることなく仲良く遊んでいたという記憶です。 (さらに…)…
荷出さんが子どもの頃の遊びについて。荷出さんの頃までは上下関係なく子どもたちが一緒に遊んでいたということですが、その1つ2つ下の代から、自分たちの学年の子どもだけで遊ぶようになった印象があるそうです。ちょうど時代の変わり目だったのかもしれません。 ちなみに「蝋…
荷出さんが子どもの頃に楽しみにしていたのが西仲通り商店街の盆踊り大会と夏祭り。 西仲通りの盆踊りは、日本中から人が入ってきた月島らしく、全国各地の民謡に合わせて踊ったそうです。 お祭りでは、派手な化粧と衣装を身に着けたおばさんが楽しんでいる姿が目に焼き付い…
今はもんじゃ焼き一色といった西仲通り商店街ですが、かつてはありとあらゆる商店が軒を連ねており、周辺にも各種商店が点在していました。 荷出さんが印象に残っているという商店、第一鹿島酒店さん、レバーフライの佐藤さん、味噌屋の坂本さん、赤ちゃん屋さんについて話してい…
この動画は、本活動の代表者・宮本、インタビューにも協力してくださった荷出さんと3人の会話を編集したものです。 塚田さんは現在、月島2丁目で糀(こうじ)カフェ「元氣喫茶」を営んでいます。 ご自身が住んでいた月島一丁目の長屋は再開発で取り壊されました。この長屋は知り合いであるオーナーさんか…
昭和8年生まれの保田さんの一回り年上の兄(長兄)の記憶です。その兄が昭和20年に特攻隊員として佃を離れる時の感動的なエピソードに始まり、終戦後に帰還してすぐGHQの通訳として働き始めた時の周囲の反応、そして、保田さんが「人というのは食べ物に弱いものだ」と強く実感し…
昭和8年生まれの保田さんは、当初、NHKに就職しましたが、すぐにストレスのため体調を崩し、ドクターストップがかかり、やむなく退社。 その後、快復した保田さんがやりたいと思ったのは商売。しかし、父親代わりの叔父は、性格的に無理だ、となかなか認めてくれません。 …
昭和8年生まれの保田さんが月島テレビ商会を立ち上げた昭和30年頃は、テレビがまだ一般家庭に普及していないため、街頭テレビの前に大勢の人が押し寄せました。 最初は佃の長屋を借りて商売を始めた保田さん。「テレビ屋なんだからテレビを置かないと…」という…