中澤さんのご主人・英吉さんは「東港運輸」という筏会社に勤めていた筏師。動画では、以前お隣さんで半世紀にわたるお付き合いのある荷出さんと一緒に思い出を語ってくださいました。 年代は定かではありませんが、東京湾を渡って木更津に木材を届ける時は、波に飲まれそうになり「死にはぐった(死…
夫が筏会社で働いていた中澤さん。このエピソードの年代は定かではありませんが、川で仕事をしている人たちに、船でうどんを出前してくれる店があったそうです。このお店は陸にも店を構えていたそうです。陸にあったお店で調理したものを届けたのか、船上で調理して提供していたのかは…
語り手でもある大山隆三さんより、月島警察署創立五十周年記念「月島警察署五十年の歩み」をお借りしました。お父さんが月島警察署勤務の警察官で、数々の人情味のあるエピソードを話していただきました。記念アルバムの中から数ページを掲載させていただきます。 …
月島と月三小がある晴海との間には朝潮運河があります。 その朝潮運河にはかつて筏会社があり、水面に筏がたくさん浮かんでいました。 荷出さんより一回り前の月島っ子は、その筏で遊んでいたそうですが、死亡事故などもあり、荷出さんの頃には厳しく禁止されていたようです…
昭和10年創立の月島第三小学校(月三小)の第1回卒業生で、PTA会長だった原田さんが話してくれた戦前の朝潮運河の記憶です。 水がきれいで白魚が捕れた、朝学校へ行くときに橋を渡らずに運河を泳いで渡った…など、今では考えられない時代のお話です。 …
大きな鉄工所や造船所、その関連工場などが多く点在していた月島。当然、学校にもそこで働く親をもつ子どもたちがたくさんいましたが、皆、親の立場の違いなどは気にすることなく仲良く遊んでいたという記憶です。 (さらに…)…
荷出さんが子どもの頃の遊びについて。荷出さんの頃までは上下関係なく子どもたちが一緒に遊んでいたということですが、その1つ2つ下の代から、自分たちの学年の子どもだけで遊ぶようになった印象があるそうです。ちょうど時代の変わり目だったのかもしれません。 ちなみに「蝋…
他の方々のオーラルヒストリーにもよく登場する朝潮運河。定かではありませんが平成の初めころまでは筏会社があり、運河にはたくさんの筏があったそうです。 昭和15年生まれの馬場さんが小学生の頃は、その筏置場が遊び場だったようです。馬場さんがその時代のことを話しています。 その後、事故もあり、…
宮本邦夫さんが長崎に疎開する前の昭和19年、そして、小学校を卒業して月島に戻り、月島第一中学校に通っていた昭和27年頃、そして、昭和30年代の時代の変化、生活の変化を話してくれました。 戦中は魚を釣っておかずにし、配給の列に並ぶ日々。昭和27年に戻ってきた時の…
昭和14年生まれの宮本邦夫さんが疎開先の長崎から戻ってきた昭和27年頃の記憶です。その頃竣工した月島第一中学校に通っていた宮本さん。そばにあった月島第三小学校は、戦時中は陸軍が使用していたこともあり、戦後、米軍によって接収されていました。宮本さんは、フェンスの向こ…