宮本邦夫さんが月島のまちを歩きながら思い出を語ってくださいました。 昭和14年生まれの宮本さんは疎開先の長崎で小学校を卒業し、月島に昭和27年に戻ってきました。その頃、わたし公園(わたし児童遊園)のそばにも銭湯がありました(河岸の湯だと思われます)。 友だ…
昭和14年生まれの宮本邦夫さんが月島のまちを歩きながら記憶を語ってくださいました。 パート2は、月島3丁目、西仲通り商店街と清澄通りの間のエリアです。 最初に紹介したのは、語り手の一人でもある三代目・左久作さんの仕事場(ご自宅)。昔から鉄を叩く音がまちなか…
昭和14年生まれの宮本邦夫さんが、月島を歩きながら生活の記憶を語ってくださいました。 パート3は清澄通りからスタート。都電の話では、かつての路線番号をスラスラ覚えているのがさすがです。月島第一公園では、野球をしていたことがあったとか。隅には月島第一小学校の生徒が授業で泳ぐプール…
昭和12年生まれの黒野富太郎さんの記憶。現在、晴海総合高校がある場所には、かつて月島第一中学校がありました。それができる以前、戦中戦後の食糧難の時代に、黒野さんたちはそこで芋を育てていたそうです。 (さらに…)…
昭和7年生まれの寺本さんが小学校に入学してまもなく、軍国主義教育が熱を帯び、幼心にもいずれ戦地に向かうという覚悟をしていたそうです。そんな状況でも、やはり子どもは遊びになると夢中になって駆け回っていたという記憶です。 (さらに…)…
かね重の寺本さんが、ご自身の戦時中の体験、戦後の商店街の取り組みについて語っていただいた部分を抜粋しました(一部要約) ☆お話しいただいた方のプロフィール 寺本政美さん 昭和7年(1932年)月島生まれ。7人兄…
清澄通りを戦車が走っていたという戦争中の記憶です。戦時中の地域の様子も語られています。 (さらに…)…
戦時中は空襲に備えて防空壕を掘りました。しかし、埋め立て地である月島では、穴を掘ると水がにじみ出てくることもあったようです。空襲警報が鳴り敵機が近づいてくる中、近所の方がとった行動にも胸が熱くなります。 (さらに…)…
(画像をクリックすると拡大されます) 昭和18~19年頃。インタビューでお話いただいている宮本英一さんの母:多美子さん(松原美枝子さんの本の話にも登場)。 場所は勝鬨橋。勝鬨橋ができて3、4年後の頃。 勤め先は、橋向こうの海軍経理学校。勝鬨橋を歩いて渡って通勤していた。…
(画像をクリックすると拡大されます) 昭和18、9年。インタビューでお話いただいた宮本英一さんの母:多美子さん。18、19歳のとき。写真屋さんで撮影。 …