中央区佃島に長くお住いの方々のオーラルヒストリー(口述歴史)集です。画像をクリックするとインデックスにジャンプします。 …
佃一丁目で釣り船、屋形船「佃 折本」を営む折本さんご姉弟。インタビューは、折本さんが準備してくださった写真集の中の一枚、たくさんの浴衣(祭りの揃衣)が干してある写真からスタートしました。「祭りの浴衣が寝巻になる」「3年に一度の大祭と同時に、佃の風景も更新される」「…
釣り船、屋形船「佃 折本」を営む折本さん姉弟。この動画でも、佃の漁師が漁業権を放棄する前(昭和30年代前半頃)の船入堀を写した写真を見ながらお話が進みます。そして、折本さんの先代が、時代の先を見越して水産庁や東京都の人たちと一緒に始めたという、海苔の養殖の話に移り…
「中央区民文化財」に登録されている白魚献上箱を見せていただきました。 中央区ホームページより「白魚献上箱は、佃島の漁民が将軍の食膳用として、江戸城本丸へ献上する白魚を運んだ箱です。朱漆塗の内箱を、黒漆塗の挟み箱に入れて、棒を通して担ぎました。佃島の漁民は、徳川…
折本さんに船を出していただき、船入堀(佃堀)に関するお話を伺いました。子ども時代の遊びの思い出、祭りの幟が埋められている話、また最近の話として、佃島漁業組合に所属している江東区の船が台風時にここに避難してくることもあるそうです。「水面と陸地の目線がこれだけ近いのは…
田中家の本家筋は網元として隆盛を誇っていましたが、寿子さんの祖父たち男兄弟は「放蕩しすぎるから」という理由で分家させられ、その後、祖父はコマセ問屋を始めました。今のように陸の交通網がない時代に、どのようにコマセ(アミジャコ)を各地に運んだのでしょう。また、コマセ問…
寿子さんの祖父、父とコマセ問屋を続けてきた田中家ですが、昭和20年代頃にコマセ(アミジャコ)そのものが捕れなくなったことから、海苔づくりやタタキと呼ばれる二艘の船による追い込み漁に移って行きました。タタキは男性のみで行われましたが、海苔の作業は寿子さんはじめ、女性…
田中家には、寿子さんの父が(おそらく大正時代に)福神丸を造った際に、記念に配ったという半纏が大切に残されています。そして祭りの夜、浅草などへ遊びに行く時に着た絽の着物に合わせた帯、これも百年以上の前のもので、その柄は「佃」の文字をモチーフとしたもので、現在の祭りの…
福田さんが長野県から佃にお嫁に来たのが昭和37年。最初、お見合いをするために「佃の渡し」で隅田川を渡ってきた時は、「どこに連れていかれるのか」と思ったそうです。まだ佃大橋が完成する前で、その場所には埋め立てられる前の佃川の河原がありました。そして、結婚して驚いたこ…
佃島の盆踊りとお祭りに関する思い出です。福田さんが長野からお嫁に来た頃、姑からは「嫁は盆踊りは踊っちゃいけない」と言われたそうです。その理由はわかりません。お祭りになると親戚が佃に帰って来るので、一日中お勝手に立ちっぱなしだったと語ります。故郷とはまったく違う地域…