池本さんが二十歳まで暮らしていた豊島区と月島では、住民同士のつながりもかなり異なっていたようです。何かあるとみんなが集まって協力し合う、そこでいろんなことを学ばせてもらったと、往時をしのんでいらっしゃいました。 (さらに…)…
昭和40年代の前半は、今ほどは経済的に豊かではなかったけど、心は豊かだった…。季節の行事を心待ちにし、忙しくてもみんなで運営に協力し、そして楽しむ。人々の絆が強く感じられたいい時代だったと振り返っておられます。 (さらに…)…
宮本英一さんが生まれた昭和28年は、テレビ放送が始まった年でもあります。その後、一般家庭にテレビが普及していくことになりますが、おそらくその初めの頃、同じ長屋に住む方が白黒テレビを買ったときの記憶です。 (さらに…)…
昭和28年生まれの宮本英一さんが小学校高学年になった頃、とにかく月島を中心に周辺のエリアを駆け巡ったそうです。今では考えられないちょっと危険な遊びをたくさんしたというお話です。 (さらに…)…
昭和28年月島生まれ、三代目の宮本英一さんの幼少期は、特におじいさんやおばあさんたちの行き来も盛んで、幼少期の宮本さんが隣近所のお家に上がりこんで遊んでいたというお話です。当時の路地は今よりかなり広かったというお話も興味深いです。 (さらに…)…
鉢植え・植木ものが所狭しと並ぶ路地、これが月島の代表的なイメージだと思う人も多いかと思いますが、宮本さんの幼少期、昭和30年代のはじめは、今ほど置かれていなかったそうです。このお話は近所の山本さんの家で咲いていたジンチョウゲ(沈丁花)にまつわるお話です。 (さらに…)…
夏のある日、活発なお姉さんが、「路地でお化け大会をやろう」と言い出して、友達と一緒に実行した思い出です。大らかな、時代の雰囲気を思い起こさせるお話です。 (さらに…)…
路地には表路地と裏路地があって、裏路地ではおかあさんやおばあちゃんがご飯を炊いたり、洗濯をしたり、おしゃべりをしたりしていた、というお話です。炊飯器や洗濯機もない時代の話ですが、宮本さんの語りから、その頃の生き生きした雰囲気を感じることができます。 (さらに…
宮本さんが子どもの頃、正月になると獅子舞が佃から月島に回ってきて、家の中で舞を披露してくれた、という思い出です。 それが当時の子どもたちにとっても、大きな楽しみだったようです。 (さらに…)…
小学校から帰り、小腹がすいた宮本少年が好んで向かう先は、自宅の近所にあったもんじゃ焼き屋さん。そのお店の印象、そして、もんじゃを食べ終わったあとにも楽しみがあったようです。 塚田さん・志村さんの動画にもありますが、昔は子ども向けのもんじゃ焼き屋さん…