中央区月島に長くお住いの方々のオーラルヒストリー(口述歴史)集です。画像をクリックするとインデックスにジャンプします。 …
昭和26年生まれの大山さんが生まれ育ったのは、月島12丁目(現在の勝どき)、新島橋のたもとにあった臨港駐在所(大山さんの父は月島警察署配属の警察官でした)。大山さんが幼い頃の新島橋の思い出です。 ちなみに、この動画の収録場所は、話し手でもある大矢つる子さんが切り盛りする月島三丁目の「牛もつ元気」で…
昭和4年生まれの鈴木さんが子どもの頃の貴重なお話です。川沿いの倉庫街では壁にボールをぶつけたり、トロッコで遊んだり。橋の下では釣りをしたりちょっと危険な遊びをしたり。学校の先生が当時はよく巡回をしていたという話もあります。そして、車がほとんど走っていなかった時代、…
昭和4年生まれの鈴木さんの貴重なエピソード。現在の豊海付近には遠浅の海岸があり、アサリ、ハマグリ、シオフキといった貝類がたくさんとれた。夏になると新聞社が経営する海水浴場がにぎわったといいます。 原っぱばかりだった晴海には「どでかい陸軍病院」がありました。これ…
昭和4年生まれの鈴木さんの子どもの頃は、スポーツでは相撲が一番人気。特別な道具もいらず、お金がかからないことも理由だったようですが、「東京府小学生大会」が両国国技館で行われ、みな楽しみにしていたようです。そして、鈴木さんが通っていた月島第二小学校には土俵があり、上…
昭和4年生まれの鈴木さんは小学校を卒業後、5年制の東京府立化学工業学校を受験し、入学しました。深川にあったその学校は3月10日の大空襲で焼死しつし、その後は中野駅のそばにあった学校を間借りしたということです。せっかく入学した学校ですが、戦況が進むにつれ、軍関係の学…
太平洋戦争が始まった年に五年制中学に入学し、終戦の年に卒業したという鈴木さん(昭和4年生まれ)。食糧不足、空襲警報、学徒動員で中学一年の後半から軍需工場で働く毎日。戦地に行かない若者は「非国民」呼ばわりされ、皆、陸軍か海軍の関連学校を受験したり、中には志願して戦死…
月島は空襲がなかったと語る方がほとんどだったのですが、鈴木さんが生まれ育った勝どき(昔の月島7~12丁目)には空襲があったようです。一機だけやってきたB29が低空飛行しながら油脂焼夷弾が落とすのを防空壕から見ていた鈴木さん。ポッポポッポと火の手があがり、その後、東…
太平洋戦争末期、鈴木さん(昭和4年生まれ)の母校、月島第二小学校が野戦病院になっていたという記憶です。校舎が黒幕で覆われ、中は見えないようになっていたそうです。授業ができないため、疎開をしない・できない子どもたちは、寺小屋に通いました。寺小屋は勝どきに2つあった銭湯や、清澄通り沿…
鈴木さんが月島第二小学校の六年生のとき、昭和15年に勝鬨橋が開通しました。学校の前へ出て日の丸を振り、橋があがったところに傷痍軍人が乗った真っ白い船が隅田川を通っていったそうです。今から80年以上前の出来事を鮮明に覚えておられ、それを記録できる貴重なインタビューで…