百年以上続いた佃の山本商店。2020年5月に閉店しました。この動画はその約一年前に収録した、三代目主人・征子さんのインタビューです。昔から駄菓子も置いてあったようですが、元祖コンビニ(萬屋)として地域の人々に重宝がられていたそうです。やがてスーパーができはじめ日用品が売れなくなり、徐々に駄菓子…
「昔の子どもたちは渡船場通りで野球をやったり、外で伸び伸びと遊んでいた。今の子どもたちはちょっと窮屈じゃないかな。あれやっちゃダメ、これもやっちゃダメ、これは禁止だ…」と山本さんは言います。駄菓子屋に来ればそこは子どもたちの世界。お小遣いのやりくりを学んだり、子ども同士でこっそり…
山本商店・三代目店主の征子さんが佃に嫁いできたのが昭和42年。あっけらかんとした下町の雰囲気が漂い、ご近所とも何かしらでつながっており、行き来も頻繁にあったそうです。後半は地域の人々から呼ばれている「ちょうべい」の由来。お向かいの櫻木龍吉さんの兄・秀吉さんが描いた昭和初期の佃の地図にも「長兵衛…
櫻木さんの子どもの頃の遊びの話です。子どもたちは上町(うわて)、下町、東町(むかいちょう)ごとに遊んでいたようです。佃の渡しから伸びる渡船場通りでは野球をやったり、時には東雲都橋の方まで歩いてハゼ釣りに出かけたこともあったようです。下町には漁師が多く、お盆前に佃で釣りをしていると「殺生するんじ…
昭和39年に佃大橋ができる前、そこには佃川が流れていました。そこにあった櫻木家の階段の話です。江戸時代からあるその階段は、房州などから船で運ばれてきた魚を荷揚げするためのものだったようです。櫻木家の日本橋魚河岸時代の鑑札は「荷主」と「仲買」、屋号は、日本橋魚河岸時…
佃の渡船場通りにある櫻木家は、戦後、駄菓子屋を営んでいた時期がありました。その当時(昭和22年頃)の貴重な写真には、縁台に座る櫻木さんや生き生きとした表情で遊ぶ少年たちの姿が映っています。櫻木家の向かいにはすでに駄菓子屋・山本商店がありました。櫻木家は主に生菓子や焼き芋を扱っていたそうです。 …
佃住吉神社の三年に一度の例大祭では、神輿を担いで隅田川に入る海中渡御が行われていました。昭和三十七年に行われた最後の海中渡御の写真には、初めて渡御に参加した櫻木さんの姿もあります。海中渡御の際には、あらかじめ隅田川の川底に砂袋を敷き詰めておいたそうです。動画の最後には現在の船上渡御の映像が入っ…
1600年代の後半に、佃島の漁師が築地本願寺の再建に尽力したことは有名な話ですが、渡邉さんの御先祖を始め、当時の佃の人々の中には、自分の土地を売り払って金に換え、それを築地本願寺に寄進した方々が多くいらしたそうです。そして、その土地のほとんどがいまだに借地となっているそうです。先祖から伝わる大…
東京湾の漁師でその名を知らぬものはいなかったという網元・平熊。一般企業に勤めた渡邉さんは、会社の同僚から「佃の平熊の人間がうちの社員になるわけないんだから、佃で平熊だなんていっちゃ笑われるぞ」と忠告を受けたこともあったそうです。渡邉家の家系のエピソードは、ある日、…
網元として繁栄する一方、東京市が運営を始めるまで「佃の渡し」の渡し守もやっていたという渡邉家。「なのになんであんな粗末な家に住んでいたんだ? 何であんな貧乏してたんだ?」と母にただしたところ、返ってきた答えは、父が金科玉条のごとく守り通した「家なんて雨露さえしのげ…