楠さんの小学生時代の思い出。楠さんのお父さんは、履き物屋とは別に東雲(しののめ)で釣り道具・釣り船屋も営んでいました。そのこともあって、友達とよく遊びに行っていたそうです。当時、東雲はまだ草むらで、そこで見つけた弱ったシラサギを学校に持ち帰ったり、オオト(トノサマ…
「僕たちが子どもの頃は月島には緑が少なく、今ほどセミがいなかった」。楠さんたちは勝どきから都電に乗って、日比谷公園にセミ捕りに出かけました。そして、そこでちょっとしたハプニングが…。大らかな空気が流れる時代の、夏の思い出です。 (さ…
昭和28年生まれの楠さんの小学生時代の記憶です。娯楽が少なかった時代、人々は映画に夢中になりました。楠さんが通っていた月島第一小学校で行われた映画大会。子どもたちは映画はもちろん、普段は入れない夜の学校を探検することが楽しみだったようです。 そして、西仲通り商…
かつてウナギの名所だった月島川には、多くのだるま船(運搬船)が停泊しており、その船の中で生活している人もたくさんいたそうです。 楠さんのおじいさんが船を持っていて、そうした人たちと交流があったというのも月島人らしい一面です。 (さらに&hel…
西仲通り商店街の四番街と三番街の交差点にある趣味のお履物「あずまや」四代目店主、楠さんのお話です。楠さんがこの仕事を引き継いだのが昭和40年代の終わり。その頃は男女ともにお客さんが多く、下駄屋や草履などの履物もよく売れていたそうです。その後、中国をはじめとする輸入…
荷出さんが生まれる前、両親が地方から出てきて知り合い、結婚し、兄が生まれた頃までのお話です。 二階家の二階を間借りして新生活を始めるも、一階に住む大家さんに気を使って、「夜泣きする息子を抱えて表に出て、寝かしつけてから自分が寝る」という気苦労があったそうです。…
家族5人が当時住んでいた家は平屋の借家。2間あるうち一部屋を家族の居間として、もう一部屋は仕事場として使用。 お父さんは元々洋服の仕立て職人で、この当時は最大5人の奉公人を雇ってスーツなどを仕立てていました。 奉公人たちの生活、皆で一緒に食べるご飯、「狭い…
昭和30年代の暮らしの続きです。 当時住んでいた借家は2間。そのうち1間は仕立ての仕事場として使用していたため、残る1間で家族5人が川の字(というか鯉のぼりですね)になって寝ていたこと、そして、部屋にあった家財道具について話していただきました。 …
まだ内風呂のある家庭が少なかった時代の銭湯の記憶。 カランが足りずその間に入りこんでお湯をわけてもらったり、知り合い同士が背中の流しっこをしたり…。 「月島の各町内に銭湯が1つ以上あった」ということは、中央区沿革図集から引用したマップでもわか…
無尽は、お金を積み立てて、お金が入用になった人がまとめてそれを受け取り、また返していくという互助的な組織で、月島でもあちこちにグループがあったようです。今でも続けている方もいらっしゃるようなお話も聞いたことがあります。 定期的に集まっては互いの事情を話し、相互…