佃で知らぬ人はいないという有名人・オハルばあさんと、中島さんの母とのエピソードです。写真からお二人の関係、友情がみてとれます。「チャキチャキの江戸っ子」と自他ともに認める方々がまだまだ多くいらした頃のエピソードです。そして、佃の人々にはお年寄りをとても大切にすると…
祭りのときはもちろん、日ごろから大人が子どもたちに声をかけていたという中島さんの幼少時代。「そういう地域性が、私を育ててくれた」。中島さんは今もお住いの地域で、子どもたちに声を掛け続けていると言います。今の時代、すべての地域にとって大切なメッセージです。祭りの時に…
月島1丁目、清澄通り沿いの一角で栁田産業を営む栁田さんの事務所の床には、防空壕が残っています。当時は、清澄通り沿いの植栽のある場所に防空壕を掘っていたことが多かったようですが、「いずれにせよ空襲を受ければ蒸し焼きになっただろう」と語ります。父親から聴かされた話とし…
昭和17年生まれの栁田さんが大学を卒業し栁田産業に入ったのは昭和30年頃。造船、自動車、飛行機等のメーカーなどとのお付き合いも、時代とともに変化していった部分も多かったようです。かつて月島にたくさんあった工場もほとんどが姿を消し、関連する材料業者などもなくなりまし…
都電が走っていた頃、月島には多くの工場がありました。豊洲にあった石川島重工業も最盛期だったようで、毎朝、都電を降りて職場に向かう人の列が見られたようです。「月島を過ぎたらガラガラ」で、通り沿いにあるタバコ屋は東京有数の売り上げがあったいい、高度成長期を象徴するよう…
月島1丁目栁田産業の奥には「現役の井戸」があります。栁田さん(昭和17年生まれ)は現在もその水を植木の水やり、打ち水、機械の洗浄などに使っています。戦時中は防火、消化のために月島でも井戸づくりが行われ、長屋と長屋の間には必ずと言っていいほど井戸があったそうです。 …
月島1町目で栁田産業を営む栁田さん(昭和17年生まれ)の自宅兼工場は、清澄通り沿いに事務所、奥が工場となっているという独自のスタイルですが、周囲にはやはり長屋が立ち並んでいました。カギをかけない、2,3軒先の家まで玄関を通して声をかけることができる、縁台で夕涼みを…
栁田さん(昭和17年生まれ)は月島1丁目で現在も配管用継手販売、作業工具製造販売を営んでいます。かつて、月島に工場がたくさんあった頃は鍛冶屋も多く、栁田産業のある清澄通りの向かい側にも5軒はあったといいます。通りには桶屋、大八車を作る店、ブリキ屋、屋根屋、大衆食堂…
戦前から商店が軒をつらなていた西仲通り。夜になると商店の前に、偶数日はこっち側、奇数日は向こう側というふうに交互に露店が並んだそうです。レバーフライの一部のお店は露店からはじまり、そのまま月島に残ったのではないかと栁田さんは言います。露店は時代の流れで徐々に姿を消…
栁田さんは長年に渡り町会、民生・児童委員(代表会長も)、月島補導連絡会(会長も務める)など、地域のボランティア活動を続けてこられました。新しいマンションができると管理事務所で「うちには区にお世話になる人はいませんから結構です」と断られ、一方で、あれほど隣近所と親密…