清澄通りを戦車が走っていたという戦争中の記憶です。戦時中の地域の様子も語られています。 (さらに…)…
戦時中は空襲に備えて防空壕を掘りました。しかし、埋め立て地である月島では、穴を掘ると水がにじみ出てくることもあったようです。空襲警報が鳴り敵機が近づいてくる中、近所の方がとった行動にも胸が熱くなります。 (さらに…)…
昭和14年の宮本邦夫さんが疎開先の長崎で小学校を卒業し、月島に戻ってきた頃のお話。近所に住む先輩と路地でいろいろな遊びをした思い出です。 (さらに…)…
昭和40年に二十歳で月島に嫁いできた池本さん。それまで暮らしていた豊島区と月島の街並みや生活文化の違いに驚きを隠せなかったそうです。 (さらに…)…
池本さんが二十歳まで暮らしていた豊島区と月島では、住民同士のつながりもかなり異なっていたようです。何かあるとみんなが集まって協力し合う、そこでいろんなことを学ばせてもらったと、往時をしのんでいらっしゃいました。 (さらに…)…
昭和40年代の前半は、今ほどは経済的に豊かではなかったけど、心は豊かだった…。季節の行事を心待ちにし、忙しくてもみんなで運営に協力し、そして楽しむ。人々の絆が強く感じられたいい時代だったと振り返っておられます。 (さらに…)…
宮本英一さんが生まれた昭和28年は、テレビ放送が始まった年でもあります。その後、一般家庭にテレビが普及していくことになりますが、おそらくその初めの頃、同じ長屋に住む方が白黒テレビを買ったときの記憶です。 (さらに…)…
昭和28年生まれの宮本英一さんが小学校高学年になった頃、とにかく月島を中心に周辺のエリアを駆け巡ったそうです。今では考えられないちょっと危険な遊びをたくさんしたというお話です。 (さらに…)…
昭和28年月島生まれ、三代目の宮本英一さんの幼少期は、特におじいさんやおばあさんたちの行き来も盛んで、幼少期の宮本さんが隣近所のお家に上がりこんで遊んでいたというお話です。当時の路地は今よりかなり広かったというお話も興味深いです。 (さらに…)…
鉢植え・植木ものが所狭しと並ぶ路地、これが月島の代表的なイメージだと思う人も多いかと思いますが、宮本さんの幼少期、昭和30年代のはじめは、今ほど置かれていなかったそうです。このお話は近所の山本さんの家で咲いていたジンチョウゲ(沈丁花)にまつわるお話です。 (さらに…)…