田中さんが小学校に上がる頃に近所にできた「三角公園」。そして、夏のラジオ体操と町内の水撒き。遊ぶのはいつも登校班の仲間でした。上級生のお兄さんお姉さんがさまざまな遊びを考案し、みんなで一緒になって遊ぶ。小さな弟や妹(おまめ)が泣き出したりお漏らしした時は、お兄さん…
田中さんの結婚式、「佃囃子」がハレの舞台を盛り上げてくれたという思い出と、佃には親戚同士の強い結びつきはもちろん、親戚のような深いお付き合いをしている家がどの家にもあった、というお話です。今では、お年始に、河岸の屋号の入った手ぬぐいをご近所に配って回るという光景も…
「『いるの?』と声がして、『いるよ』と答えた時には、もう茶の間に座っている」「雨が落ちてきて『雨降ってきたよ~』と声をかけるのは当たり前で、家の中まで入って行って洗濯物を取り込んだこともある」、さらには「火事があっても上がって行って、家財を全部運び出す」という、佃…
〝お年頃”になった田中さんがおつかいや銭湯に行くため佃小橋を通ると、「こっちが知らなくても、あっちは私のことを知っている」という老人たちから声を掛けられたり冷やかされた、というエピソードです。「漁師には潮目を見る習慣があった。その名残りだったのかもしれ…
昭和30年生まれで、江戸鍛冶である三代目・左久作さんの記憶。 祖父、初代・左久作さんは、大正11年に月島に移り住みました。その頃、月島は新興住宅地。さらに、水に囲まれていたため、家屋大工(町大工)、造作大工、船大工などさまざまな職人が住んでいて、必要な道具を手…
昭和30年生まれの左さんの、小学生時代の遊びの記憶。 マルハとは大洋漁業のことです。黒野富太郎さんのお話にも出てきましたが、隅田川沿いに工場や製氷工場がありました。左さんたちはよくその建物内にも忍び込んでいたようですが、ある時、製氷室の中に閉じ込められてしまった…という記憶です…
昭和30年生まれの左久作さんが小学生くらいの記憶でしょうか。当時はどの水辺にもたくさん浮かんでいたというミズクラゲを、爆竹を使って…という思い出です。 飛び散ったミズクラゲの臭いまでよく記憶していらっしゃいます。 (さらに&he…
おつかいを頼まれ商店街の八百屋に来たものの、迫力あるおばさんたちをかき分けて、店のおじさんに声をかける"勇気"が必要だった頃の記憶。目の前には皿に盛られたじゃがいも。しかし、母に頼まれたのは2つだけ…。子どもの微妙な心理を巧みな表…
冬に、電車通り、つまり、清澄通りから美しい富士山を見たという記憶です。 子どもの頃とはいえ、あの美しさは忘れらないそうで、はっきりと記憶に残っているそうです。 (さらに…)…
昭和34年に開場、平成8年に閉場した晴海国際見本市会場にまつわる2つの楽しみ。昭和30年生まれの左さんが小学校3年生から6年生くらいの思い出です。 見本市が開かれていないときは誰もいない空間。そこは子ども(悪ガキ)たちの格好の遊び場でもあったようです。 後…