1600年代の後半に、佃島の漁師が築地本願寺の再建に尽力したことは有名な話ですが、渡邉さんの御先祖を始め、当時の佃の人々の中には、自分の土地を売り払って金に換え、それを築地本願寺に寄進した方々が多くいらしたそうです。そして、その土地のほとんどがいまだに借地となっているそうです。先祖から伝わる大…
東京湾の漁師でその名を知らぬものはいなかったという網元・平熊。一般企業に勤めた渡邉さんは、会社の同僚から「佃の平熊の人間がうちの社員になるわけないんだから、佃で平熊だなんていっちゃ笑われるぞ」と忠告を受けたこともあったそうです。渡邉家の家系のエピソードは、ある日、…
網元として繁栄する一方、東京市が運営を始めるまで「佃の渡し」の渡し守もやっていたという渡邉家。「なのになんであんな粗末な家に住んでいたんだ? 何であんな貧乏してたんだ?」と母にただしたところ、返ってきた答えは、父が金科玉条のごとく守り通した「家なんて雨露さえしのげ…
単調なリズムの太鼓と哀愁を帯びた踊り歌に合わせ、足を引きずるような動きを右に左に繰り返しながら踊る、佃島の盆踊り。昔から渡邉家の身内が中心となって、歌い継いできた歴史があるそうです。そのルーツは、石山本願寺と織田信長の合戦に勝利した鈴木飛騨守が、負傷した足を引きず…
荷出さんが生まれる前、両親が地方から出てきて知り合い、結婚し、兄が生まれた頃までのお話です。 二階家の二階を間借りして新生活を始めるも、一階に住む大家さんに気を使って、「夜泣きする息子を抱えて表に出て、寝かしつけてから自分が寝る」という気苦労があったそうです。…
家族5人が当時住んでいた家は平屋の借家。2間あるうち一部屋を家族の居間として、もう一部屋は仕事場として使用。 お父さんは元々洋服の仕立て職人で、この当時は最大5人の奉公人を雇ってスーツなどを仕立てていました。 奉公人たちの生活、皆で一緒に食べるご飯、「狭い…
昭和30年代の暮らしの続きです。 当時住んでいた借家は2間。そのうち1間は仕立ての仕事場として使用していたため、残る1間で家族5人が川の字(というか鯉のぼりですね)になって寝ていたこと、そして、部屋にあった家財道具について話していただきました。 …
まだ内風呂のある家庭が少なかった時代の銭湯の記憶。 カランが足りずその間に入りこんでお湯をわけてもらったり、知り合い同士が背中の流しっこをしたり…。 「月島の各町内に銭湯が1つ以上あった」ということは、中央区沿革図集から引用したマップでもわか…
無尽は、お金を積み立てて、お金が入用になった人がまとめてそれを受け取り、また返していくという互助的な組織で、月島でもあちこちにグループがあったようです。今でも続けている方もいらっしゃるようなお話も聞いたことがあります。 定期的に集まっては互いの事情を話し、相互…
昭和40年頃、スーパーマーケットもない時代、月島にはあらゆる商店が軒を連ねていました。 特に夕方の魚屋さんは、買った魚をさばいてもらうための行列ができ、大変な混雑。退屈になった少女は…。 魚辰さん(漢字は未確認)がお母さんの行きつけだったよう…