としえさんのプロフィール 横浜生まれの横浜育ち。お江戸に来てもう10年経過。 古き良き町並みが残る隣町の月島にはお散歩がてら、何か新しい発見はないかと定期的に開拓に歩く。 新しい個人経営店を見つけては立ち寄るのも大好き。 月島の路地に咲く草木が季節の顔を見せてくれる。路地裏のメダカの鉢や…
以前、(今の)月島2丁目にお住まいだった神居さんからご提供いただいた新聞記事です。 朝日新聞 「東京食図鑑」1981年(昭和56年) (神居さんにについてはこちらをご覧ください) (画像をクリ…
以前、(今の)月島2丁目にお住まいだった神居さんからご提供いただいた写真です。 以下、いただいた写真説明です。 (神居さんにについてはこちらをご覧ください) 晴海に「小野田レミコン(小野田セメント)」があり、これを搬出するのに鉄…
以前、(今の)月島2丁目にお住まいだった神居さんより、写真をご提供いただきました。ありがとうございました。 以下、神居さんからの文章と、写真とキャプション(神居さんからのものを一部調整)を掲載します。 ***************…
動画でたくさんの記憶を語っていただいた荷出さんが提供してくださった家族写真です。 動画「印象に残っている商店」にも出てくる第一鹿島酒店が写っている家族写真もあります。お住まいは第一鹿島の向かい側だったそうです。 昭和35年1月…
昭和30年生まれで、江戸鍛冶である三代目・左久作さんの記憶。 祖父、初代・左久作さんは、大正11年に月島に移り住みました。その頃、月島は新興住宅地。さらに、水に囲まれていたため、家屋大工(町大工)、造作大工、船大工などさまざまな職人が住んでいて、必要な道具を手…
昭和30年生まれの左さんの、小学生時代の遊びの記憶。 マルハとは大洋漁業のことです。黒野富太郎さんのお話にも出てきましたが、隅田川沿いに工場や製氷工場がありました。左さんたちはよくその建物内にも忍び込んでいたようですが、ある時、製氷室の中に閉じ込められてしまった…という記憶です…
昭和30年生まれの左久作さんが小学生くらいの記憶でしょうか。当時はどの水辺にもたくさん浮かんでいたというミズクラゲを、爆竹を使って…という思い出です。 飛び散ったミズクラゲの臭いまでよく記憶していらっしゃいます。 (さらに&he…
おつかいを頼まれ商店街の八百屋に来たものの、迫力あるおばさんたちをかき分けて、店のおじさんに声をかける"勇気"が必要だった頃の記憶。目の前には皿に盛られたじゃがいも。しかし、母に頼まれたのは2つだけ…。子どもの微妙な心理を巧みな表…
冬に、電車通り、つまり、清澄通りから美しい富士山を見たという記憶です。 子どもの頃とはいえ、あの美しさは忘れらないそうで、はっきりと記憶に残っているそうです。 (さらに…)…