昭和30年代の暮らしの続きです。 当時住んでいた借家は2間。そのうち1間は仕立ての仕事場として使用していたため、残る1間で家族5人が川の字(というか鯉のぼりですね)になって寝ていたこと、そして、部屋にあった家財道具について話していただきました。 …
まだ内風呂のある家庭が少なかった時代の銭湯の記憶。 カランが足りずその間に入りこんでお湯をわけてもらったり、知り合い同士が背中の流しっこをしたり…。 「月島の各町内に銭湯が1つ以上あった」ということは、中央区沿革図集から引用したマップでもわか…
無尽は、お金を積み立てて、お金が入用になった人がまとめてそれを受け取り、また返していくという互助的な組織で、月島でもあちこちにグループがあったようです。今でも続けている方もいらっしゃるようなお話も聞いたことがあります。 定期的に集まっては互いの事情を話し、相互…
昭和40年頃、スーパーマーケットもない時代、月島にはあらゆる商店が軒を連ねていました。 特に夕方の魚屋さんは、買った魚をさばいてもらうための行列ができ、大変な混雑。退屈になった少女は…。 魚辰さん(漢字は未確認)がお母さんの行きつけだったよう…
月島と月三小がある晴海との間には朝潮運河があります。 その朝潮運河にはかつて筏会社があり、水面に筏がたくさん浮かんでいました。 荷出さんより一回り前の月島っ子は、その筏で遊んでいたそうですが、死亡事故などもあり、荷出さんの頃には厳しく禁止されていたようです…
昭和10年創立の月島第三小学校(月三小)の第1回卒業生で、PTA会長だった原田さんが話してくれた戦前の朝潮運河の記憶です。 水がきれいで白魚が捕れた、朝学校へ行くときに橋を渡らずに運河を泳いで渡った…など、今では考えられない時代のお話です。 …
大きな鉄工所や造船所、その関連工場などが多く点在していた月島。当然、学校にもそこで働く親をもつ子どもたちがたくさんいましたが、皆、親の立場の違いなどは気にすることなく仲良く遊んでいたという記憶です。 (さらに…)…
荷出さんが子どもの頃の遊びについて。荷出さんの頃までは上下関係なく子どもたちが一緒に遊んでいたということですが、その1つ2つ下の代から、自分たちの学年の子どもだけで遊ぶようになった印象があるそうです。ちょうど時代の変わり目だったのかもしれません。 ちなみに「蝋…
荷出さんが子どもの頃に楽しみにしていたのが西仲通り商店街の盆踊り大会と夏祭り。 西仲通りの盆踊りは、日本中から人が入ってきた月島らしく、全国各地の民謡に合わせて踊ったそうです。 お祭りでは、派手な化粧と衣装を身に着けたおばさんが楽しんでいる姿が目に焼き付い…
今はもんじゃ焼き一色といった西仲通り商店街ですが、かつてはありとあらゆる商店が軒を連ねており、周辺にも各種商店が点在していました。 荷出さんが印象に残っているという商店、第一鹿島酒店さん、レバーフライの佐藤さん、味噌屋の坂本さん、赤ちゃん屋さんについて話してい…