野村さんのお父さん(後ろのポスターに写っている男性)は、月島にあった筏会社で主にポンポン船の船長をしていたそうです。 幼い野村さんはよく船に乗せてもらい東京湾へ。その時に見た夕陽の美しさ! 水とともに生きた月島人とその家族ならではの、一生忘れることのできな…
筏会社で主に船を操縦していたお父さんはいつも同じ服装。上は祭りの時のダボシャツ、夏は素足に下駄、冬は黒足袋に下駄。 愛用する下駄は月島の履き物屋「あづまや」さんのものに決まっていた、という話からご近所とのやりとりに続きます。 お父さんの服装は、定年退職後、…
後ろのポスターに写っているのがお父さん。サンリオのポスターに起用されたそうです。 月島(朝潮運河)にあった筏会社で働き、野村さんの記憶では主に船(ポンポン船)の操縦をしていたとのこと。 店(亀とき)を、時栄さんが小学生の頃に一度オープンし、その後一旦閉めた…
筏会社で主に船長として働いていた父とのエピソード。いつも決まった銘柄を決めた量しか飲まない、だけどお酒を愛するお父さんが、自宅の風呂を沸かすための湯で燗酒をつくって飲んでいた話、そして、幼い野村さんを自転車に乗せてちょっと離れた銭湯に行き、帰りに2人でお店に入って…
野村さんは小さい頃からいつも2人の弟を連れて遊んでいたそうです。佃大橋が開通するまでは「佃の渡し」が運航しており、それに乗って明石町へ行きバナナを1本買って食べたり…、渡船に乗ること自体も遊びの一つだったのかもしれません。 (さらに…
野村さんが子どもの頃、子ども向けの10円もんじゃ屋さんで入れてもらう"うずらの卵"が気に入らなくて、自分で玉子を持参して怒られた…。当時は、玉子を一個売りしていたそうで、玉子屋(八百屋?)のおじさんとの会話もほほえましく、ちょっと…
黒野富太郎さんの「隅田川沿いの光景」にも出てきますが、大洋漁業の製氷工場の隣に石炭場(貯炭場)があり、そこが当時の子どもたちの遊び場にもなっていたそうです。砂利山を駆け上ったり、石で柿を落としたり…今では危険だとしてとても許されない遊びですが、上級生…
おすそ分け、醤油や味噌の貸し借り…月島はもちろん下町的なエリアではよく聞かれる話ではありますが、野村さんの語り口のせいか、やはり「いいなあ~」と思えてしまいます。今も親しいご近所とはおすそ分け習慣は続いているそうです。 (さらに&h…
「他人の子どもでも我が子のように"怒ってくれる"」という表現が、月島に長く暮らす方ならではの言い回しなのかもしれません。 (さらに…)…
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