月島1丁目の西河岸通りの一角、現在の月島1丁目児童遊園の近くに、かつて石炭場があり、昭和29年生まれの浅野さんたちにとってそこは遊び場だったようです。大人が、若者同士のケンカを見守りながら「そこまでにしろ、気が済んだだろ」と切り上げさせていたエピソードなど非常に興…
隅田川近くの月島1丁目児童遊園のあたりで思い出を語っていただきました。中島さんの父が勝鬨橋から飛び込んで、水上警察に追われながら隅田川から上がってまちを走って逃げた、というエピソードや、堤防がない頃の隅田川沿いでの遊び、勝鬨橋が開いた時の風景、佃大橋の開通式にまつ…
一つ目は中島さんが兄が生まれた頃(昭和24年)の父の、佃の渡しにまつわるエピソードです。二つ目は、お店の売上金を持ち逃げした従業員を捕まえた時の、母のエピソードです。浅野家のエピソードは昭和のホームドラマ、漫画、映画に描かれる世界を地でいっている強烈な面白さがあり…
中島さんの両親は精米店から商売を始め、中島さんが小学校1年頃に仕出し弁当屋を始めました。両親の写真を見ながら当時のエピソードを語ってくださいました。昭和20年代、30年代に、この両親のもとで生まれ育ったことを誇りに思うという中島さんの回想です。 [youtub…
両親の営む仕出し弁当屋(三幸)が6個から1000個にまで注文が増えて繁盛していた頃は、農閑期に北海道や宮城から働きに来ていた人たちと一緒に暮らしていたという浅野家。そして、祭りの時は皆で土地の神様に感謝し、皆で楽しんでいた。そうやってみんなで培ってきた心の豊かさが…
最近はどこの地域でも薄れてきたであろう「地域の一員」としての自覚。中島さんの子どもの頃は大人がそうした意識をきちんと持っており、子どもたちはそんな大人たちのことを様々な生活シーンで見ながら育ってきました。地域全体で子どもたちを育てていた頃のエピソードです。 […
中島さんの両親が現在の月島1丁目で営んでいた仕出し弁当屋「三幸」。仕込みは夜中の1時から始まるため、家族全員は夕方7時に就寝していたそうです。浅野さんたちきょうだいにも役割があり、特に姉は母の代わりに家事を切り盛りしていたそうです。そんな忙しい浅野家を、近所の人々…
”念仏踊り”などとも言われる佃島の盆踊りですが、中島さんが子どもの頃は夜八時になると大人たちが仮装をして楽しく踊ったそうです。(それがいつ頃まで続いていたのかはわかりません。)ちょっと地味な盆踊りだけど最終日にお菓子がもらえるのを楽しみに参…
冒頭は若かりし日の父の祭りの写真からはじまります。後半は、昭和29年生まれの中島さんが中学生くらいの頃のエピソードでしょうか。当時はとても恥ずかしかったという、祭りの「手古舞」の衣装。今になってみれば「本当にいい経験ができたことを母に感謝している」という中島さん。…
佃で知らぬ人はいないという有名人・オハルばあさんと、中島さんの母とのエピソードです。写真からお二人の関係、友情がみてとれます。「チャキチャキの江戸っ子」と自他ともに認める方々がまだまだ多くいらした頃のエピソードです。そして、佃の人々にはお年寄りをとても大切にすると…