昭和14年生まれの宮本邦夫さんの記憶。戦後、晴海を接収していた米軍が撤収したあと、昭和34年に開場したのが晴海国際見本市会場。冬はスケートリンクになっていたそうです。娯楽がまだ少なかった時代、宮本さんも何度も足を運んでスケートを楽しんだそうです。 …
清澄通りを戦車が走っていたという戦争中の記憶です。戦時中の地域の様子も語られています。 (さらに…)…
戦時中は空襲に備えて防空壕を掘りました。しかし、埋め立て地である月島では、穴を掘ると水がにじみ出てくることもあったようです。空襲警報が鳴り敵機が近づいてくる中、近所の方がとった行動にも胸が熱くなります。 (さらに…)…
昭和14年の宮本邦夫さんが疎開先の長崎で小学校を卒業し、月島に戻ってきた頃のお話。近所に住む先輩と路地でいろいろな遊びをした思い出です。 (さらに…)…
(画像をクリックすると拡大されます) 昭和43年11月3日。当時、長屋ではどの家も、国民の祝日には日の丸を掲げていた。インタビューでお話いただいた宮本英一さんの祖父と、同じく邦夫さんの長男(1歳)。場所は月島3丁目宮本家の前。 宮本さんの祖父はこの時は造船所を辞めて、ご近所…
(画像をクリックすると拡大されます) 昭和44年。インタビューでお話いただいた宮本英一さんの祖父と、同じく宮本邦夫さんの長男(2歳)。場所は月島3丁目宮本家の前。 …
(画像をクリックすると拡大されます) 昭和52年。インタビューにお話しいただいていた宮本英一さんの祖母と、同じく宮本邦夫さんの長女(2歳ぐらい)。場所は、月島3丁目宮本家のそば。両側にたくさんの鉢植えが並ぶ。 写真、向かって左側、ジンチョウゲの話に出てくる山本さんの家の前や…